宇野港の変遷

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宇野港は、日清戦争後における国力増強と軍備拡張という国の施策の中で、国営製鉄所の候補地になったものの、製鉄に必要な石炭の産地が遠いという理由で見送りになったが、その流れで宇野港の修築の必要性は広く認められるようになり、高崎親章が第3代知事だった1899年11月、宇野港の築港が諮問案という形で正式に県議会に提出された。

この時の岡山県議会は、総工費79万5千円余りの予算を満場一致で可決したものの、次の吉原三郎知事は、宇野港には無関心で一向に前に進まなかった。ところが、1902年2月に赴任してきた檜垣直右は、宇野港の築港が県政100年の発展を画する重要な事業であることに着目。1904年、工費1万4千円余りで一部着工を計画。翌年11月には、3カ年の継続事業として、38万8千7百余円の予算を県中北部の植林計画と合わせて改めて提案。しかし、日露戦争後の県財政疲弊を理由に否決されてしまう。

それでも、1906年1月、原業執行を告示。並行して山陽鉄道を国有化した日本国有鉄道(現在のJR)の岡山から宇野までの宇野線工事が、1907年12月から始められ、1910年6月12日に開通。同時に宇野、高松間の鉄道連絡船も就航して営業を始めている。宇野港は、発案以来8年目の1909年9月25日に竣工し、第2種重要港湾に指定されたのは、1929年12月28日。1930年2月7日には、岡山県最初の開港場(外国との貿易のための港)に指定されるなど、玉野市が形成される大きな要因となった。

アイキャッチ画像は、宇野港メモリアルパークに建立されている第5代岡山県知事の檜垣直右像。玉野市にとって檜垣は、忘れてはならない人だ。

開港指定当時の宇野港
大正期の宇野港と旭橋。
明治42年9月25日の宇野築港竣工式で配布された「宇野築港平面図」

上図は、平成21年(2009)7月、竣工100年を迎える宇野港の完成当時を詳細に記録した「宇野築港平面図」(縮尺:4000分の1 サイズ:55cm × 70cm)が玉野市内で見つかった。作製者は、同市築港で荒物店を営んでいた本倉 健さん(1859〜1945)で、同市八浜の山田快進堂社長・山田次郎さん(76)方に保管されていた。

明治42年(1909)7月15日の同港完成後の竣工式直前に当たる9月10日の発行で、現在の玉野市築港、宇野地区の大部分を範囲としている。港一帯の市街予定線や国鉄(現在のJR)宇野線の宇野駅構内での線路数まで綿密に表記されており、港の西側に位置する旧宇野村の住宅地などは、建築物の形状もうかがえる。

印刷のため当時数多く発行された可能性が高いが、岡山県立記録資料館や岡山県立図書館にも保管されていない資料。郷土史に詳しい玉野市教育委員長・榧嘉明さん(70)は、「細部まで精査でき資料価値が高い。発行時期を考えれば、竣工式を記念しての作製と推測される。築港100年の節目に見つかったのは、何かの縁かもしれない」と話している。

2009年6月23日発行の山陽新聞記事を要約転載
昭和8年4月頃に発行された「宇野港平面図」(宇野町役場編「宇野」口絵)

こちらは、昭和8年から始まる宇野港第2期10ヶ年継続修築工事の開始を記念して発行された小冊子に掲載されている。図中には、町役場や警察署などの官公庁の位置が示され、新たな埋立予定地などを図示している。明治42年の宇野築港平面図と合わせて築港地区の発展が解るだろう。

第6回 玉野市郷土資料展示@玉野市立図書館の説明文より

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