前野港造さん

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ジャズ・サックス・プレーヤーの先駆けとして著名な前野港造さんが、玉野市の老舗喫茶・サカエの初代オーナーだった事を、エマノンミュージックの藤原憲一さんから教えていただきました。そして、戦前ブルース音源研究所・山本俊さんの記事をシェアするように依頼されたので、このブログに転載します。縁の方が居られましたら、元記事へコメントをお寄せ下さい (^_-)-☆

この写真は、昭和34年(1959)10月6日、東京新橋・第一ホテルで開かれた前野港造氏の歓迎パーティー会場で撮影されたものです。日本におけるジャズ草創期の超大物メンバーが顔をそろえています。この時代ですから、席順はきっちりと序列に基づいて決められています。2列目中央が前野夫妻。向かって左が、波多野福太郎氏、右が日本初のプロのジャズ・バンドを作り、日本のジャズ普及の最大の功労者・井田一郎氏、その右隣に日本のサッチモと呼ばれた大人気トランペッター・南里文雄氏。

その他にも、日本初のジャズ・ピアニスト・川島良雄氏、戦前最高のトロンボーン吹きで、岡山出身の谷口又士氏。戦前、ダンスホールのボーイをしているところを前野氏に見いだされサックスを教わり、戦後、スターダスターズを結成し「ジャズ界の帝王」と呼ばれた渡辺弘氏などの大スターがそろっています。これ以外にも写真には写っていませんが、服部良一氏、平茂夫氏なども参加されていました。

この前日、10月5日にNHK番組・「私の秘密」に前野氏が「日本で最初のジャズ・サキソフォン奏者です」と紹介され登場。前野氏門下生の彼らの伴奏で「ウィスパリング」を演奏、全国に放送されました。この当時、前野氏は既に引退され、玉野市玉で玉野初の喫茶店・「サカエ」を経営されていましたので、テレビを見た近所の人達は「サカエのおじさんがテレビに出ている」と大騒ぎになったそうです。

そのテレビを見た当時の岡山県知事の三木氏が、県庁吹奏楽団の指導、指揮者として招聘。それ以外にも、三井造船や玉野高校、興陽高校などでブラスバンド部の指導にあたられました。その時期の玉野高校ブラスバンド部の教え子の一人が藤原さんです。

こちらは、大正15年、大阪千日前ユニオンに出演した時の井田一郎率いるチェリーランド・ダンス・オーケストラ。左から、井田一郎、前野港造、高見友祥、平茂夫、小畑光之、山口和一、山口豊三郎。

高見友祥氏は、前野氏と同じ時期にハタノ・オーケストラにドラマーとして参加。井田一郎氏に誘われ、宝塚歌劇団のオーケストラに入団。そこで後に「上海山口」の異名をとり戦前最高のドラマーとなった山口豊三郎にドラムスを教えました。

井田氏と共に宝塚を辞め、大正12年、日本初のプロのジャズ・バンド「ラフィング・スターズ」を結成。その後サックスに転向(おそらく前野氏に師事)、大正14年の暮れ、井田氏率いる名実ともに日本一のジャズ・バンド「チェリーランド・ダンス・オーケストラ」に参加。前野=高見という最強のサックス・セクションで活躍しました。

「25師団に居る時舶来品の品々を覚え仕入れ先も(神戸)分かったので、玉野市玉、本通りに、幸いにも家を借りることが出来た。一間の間口(雨戸3枚)だったが明るい小ぎれいな店だった。タバコとコーヒーは大阪時代から好きだった。煙突と言はれて居た。何時も煙が鼻から出て居たから。舶来品が街に何処にでもある様になったので店の売上げが少なくなった。

コーヒーは好きだったから神戸に仕入れに行った時、豆を買って来てミンチで粉にして沸かして飲んで居た。その香りが道路へ流れるので「いい匂いだ、あらコーヒーやではないの」と通る人にヒントを得て、その頃「純喫茶」が玉になかったので、神戸のコーヒー店を思ひ出し、資金を田端義夫に借りに大阪へ行った。田端義夫「大阪大劇」で一週間演奏して、ウレッコだったから、オヤジの伴奏だと歌い易ひと言って、一週間の宿代全部田端さん持ち、一万円貰って機嫌よく帰っていた」(前野五枝夫人の手記より)。

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