四方山話 その4

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アイキャッチ画像は、日本陸軍参謀本部の命令で支那大陸へ渡った母方の祖父(当時、陸軍中尉)が愛用していたトランクケース。1932年から支那人を随員にして1年半に渡って情報を収集、研究した痕跡に一つが「山東省済南府 金水旅館」(日本人経営)と「下関駅構内 鉄道旅館・川卯」のステッカーだと思います。

「1931年頃の世界情勢は次第に騒然として、国内でも濱口雄幸首相の東京駅頭での狙撃事件、経済恐慌、右翼暗殺団の横行など、物騒な世の中となりました。そして、日本の関東軍は満州での権益を守るためと称して満州鉄道を爆破して満州事変を引き起こしました。戦いは日増しに激しくなり、上海でも日中両軍が衝突、そして犬飼毅首相は、青年将校の率いる軍隊によって暗殺されました。こんな時に、主人は東京に出掛けました。陸大の同級生で参謀本部にいる人から極秘の相談があるというのです。それは、大陸に渡り諜報活動をしてくれないかということでした」。

祖母の自叙伝より
王子が岳から南東方面を臨む(2018)

こちらは、玉野市倉敷市に跨る景勝地・王子が岳から臨む瀬戸内海。三角形の島は、岡山県香川県の県境がある無人島・大槌島。北側が岡山県で玉野市。南側が香川県で高松市に属しています。

1731年頃、高松藩の漁師が備前藩の所属と考えていた大槌島周辺に入り込んで漁をしたことが発端で、両藩の間で漁場を巡る境界争いをするのですが、両藩では紛争が解決できず、とうとう幕府に裁きを求めることになった。

備前藩は、小川村(児島)の名主だった菅野彦九郎を担ぎ出し、「大槌島は讃岐に近いが、島の北側は日比村のものが開いた畑があり(実は、彦九郎がこっそりと上陸して画策したらしい)、幕府の絵図にも讃岐と備前の両方に大槌島が記されている。だから島の中央を両国の境界とし、漁場も北側を備前、南側を讃岐とすべきだ」と主張。大曾瀬(おおそのせ)から南側を讃岐の漁場、北側を備前の漁場とするという有利な裁きを勝ち取った。

しかし、その後も好漁場を巡る争いは絶えなかったため、またもや彦九郎が一計を案じる。ある日こっそりと大槌島から樽をながしたところ、樽は塩飽諸島のほとんどを含んで流れた。この結果にすっかり自信をつけた彦九郎は、「それでは、国境は樽流しで決めようではないか」と讃岐側に申し入れたのだ。この案では、またしても備前藩にとっては有利に働くはずだった。

そして翌1732年、両藩立会いのもとで大槌島から樽は投げこまれます。彦九郎は心の中でほくそ笑んでいたが、なぜか予想に反して樽はどんどんと備前側(北)に近寄っていく。彦九郎は青くなったが、もうどうしようもない。こうして櫃石島を含む広大な備讃瀬戸の海が讃岐領になってしまった。

「あなたのご期待通りにゆかなくて申しわけないが、ご異存あるまいな。念のため申し上げるが、潮の流れというものは時刻によって方向が変わるものじゃ。樽を流す時刻がもう半刻も遅れていれば、これらの島々はみな備前のものになっていたであろう」と讃岐藩の立会人。

樽流し伝説を要約(河井康夫 著・玉野の伝説
台風14号による宇野港の被害(2022年9月)。

穏やかな天気の日に船を海に出す。しかし、海で面白気分を得られても、「母港」から走り慣れた海をなぞって無事に帰るだけでは、航海と呼ぶには相応しくない。経験した事のない海で天真爛漫に振る舞えるだけの技量を身に付けたい 😅

昔、海と接していない群馬県前橋市で生まれ育った女性から、「子供の頃、スーパーで売られているを見て、切り身の形で海を泳いでいると思っていた」とカミングアウトされ、微笑ましく思ったのですが、「僕は、大人になるまで、板かまぼこは、板の部分を上下どちらにして泳ぐのか悩んでいた」という人物にも遭遇・・・

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