牛ヶ首島の涅槃像

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昭和32年(1957)から昭和42年頃まで、たった一人で牛ヶ首島の日蓮上人涅槃像を掘り続けた石工・松下与一(画像右・昭和41年撮影)。

涅槃像作りは、大正元年(1912)、山陽新報(山陽新聞の前身)の創始者で牛ヶ首島の所有者・西尾吉太郎が、島を一大聖園にしようと、敷地3千坪を寄付したのが始まり。発起人は、岡山市東田町の蓮昌寺の高見慈悦師ら14人。その中には、この事業を戦意高揚の場として活用しようと目論んでいた上村彦之丞、東郷平八郎ら海軍、陸軍の大将も加わっていた。

大正2年4月10日、発起人の上村彦之丞(海軍大将)、伊東祐亨(海軍軍令部総長)、東郷平八郎(海軍大将)、大迫尚敏(陸軍大将)、花房義質(後の赤十字社長)をはじめ、熱心な賛助者約20名が東京の華族會館に集会して財団法人基金の募集と工事着手の日取りなどを協議。同日、蓮昌寺・妙善院には、信徒の有力者が集合、同年4月12日から宇野駅前の河田運送店の傍らに仮事務所を、牛ヶ首島の霊石の前面に拝観所、休憩所を設ける工事に着手することを決定している。

予算は、涅槃像の彫刻に5萬5千円、埋立地経費に5千円、公会堂建築費に3萬円、事務所および付属建築費に2萬円など約12萬円(現在の通貨価値で7億円ほどか?)、工事竣工後は、財団法人とする予定だった。尚、建築物に関しては、帝室(現・国立博物館?)技師・伊藤平左衛門に設計を依頼していた。

牛ヶ首島涅槃像建立聖園会は、全国の日蓮宗信者に呼びかけて資金集めをする一方、同年11月に帝室技芸員・竹内久一に原型の制作を委嘱(大正4年にモデルが完成)。大正2年10月、原石をかき出すための除土工事が開始。作業に従事したのは、日蓮宗徒1,000名余り。老若男女を問わず各人3日以上の労役をこなしたようです。しかし、第一次世界大戦、関東大震災、満州事変が勃発、資金集めどころでなくなり計画は数年でストップしてしまう。

それから約40年後、西尾吉太郎を義祖父とする岡山金属の佐藤恒太が遺志をついで再建に乗り出す。佐藤は、玉野で石材業を営んでいた松下に木造の仮礼拝堂、コンプレッサー付きの作業小屋を建て、岡山大学教授・宮本隆美が再制作した30分の一の原型(顔上部にある像)を手本に彫刻することを依頼。松下は、これを一つ返事で快諾する。

初めの3年間は、荒削りに費やされた。最初に仕上がったのが眉毛で長さ1.5m。続いて1年半がかりで1.5mの口、そして、鼻、耳が形を現し、約10年間で顔の部分は80%完成した。しかし、寄る年波に勝てなかったのか、顔の輪郭を作る爆破作業中に苦労して彫り上げた眉毛を吹っ飛ばし、2度目も火災を発生させ礼拝堂を全焼。松下もとうとう身体を壊し、佐藤からも作業中止命令を下されてしまう。

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