牛ヶ首島の涅槃像

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1912年、山陽新聞の前身・山陽新報を弱冠20歳(!)で創刊した西尾吉太郎(1858〜1930)が、亡くなった娘さんの供養に所有していた直島諸島の一つ・牛ヶ首島に日蓮上人涅槃像を造って島を一大聖園にしようと敷地3千坪を提供したのが、この事の始まり。発起人は、岡山市東田町の蓮昌寺の高見慈悦師ら14人。その中には、この事業を戦意高揚の場として活用しようと目論んでいた海軍大将や陸軍大将も加わっていました。

1913年4月10日、海軍大将・上村彦之丞(1849〜1916)、伊東祐亨(1843〜1914)、海軍大将・東郷平八郎(1848〜1934)、陸軍大将・大迫尚敏(1844〜1927)、花房義質(1842〜1917)をはじめ、熱心な賛助者約20名が東京の華族會館に集会。財団法人基金の募集と工事着手の日取りなどを協議。同日、蓮昌寺・妙善院には、信徒の有力者が集合。同年4月12日から宇野駅前の河田運送店の傍らに仮事務所を、牛ヶ首島の霊石の前面に拝観所、休憩所を設ける工事に着手することを決定しています。

予算は、涅槃像の彫刻に5万5千円、埋立地経費に5千円、公会堂建築費に3万円、事務所および付属建築費に2万円など約12万円(現在の通貨価値で7億円ほどでしょうか?)。牛ヶ首島涅槃像建立聖園会は、全国の日蓮宗信者に呼びかけて資金を集め財団法人とする予定だったようです。因みに、建築物に関しては、帝室技芸員・伊藤平左衛門(1829〜1913)に設計を依頼していました。

1913年10月、原石をかき出すための除土工事が開始されています。この作業に従事したのは日蓮宗徒1,000名余り。老若男女を問わず各人3日以上の労役をこなしたようです。一方、同年11月に帝室技芸員・竹内久一(1857〜1916)に原型の制作を委嘱。1915年に日蓮上人涅槃像のモデルが完成したものの、第一次世界大戦、関東大震災、満州事変が勃発、資金集めどころでなくなり計画は数年でストップしてしまう。

日蓮聖人石像模型竣工式典(1915)
牛ヶ首島に作られた労力寄付信者休憩所
牛ヶ首島・土除工事(出典:西尾氏発行の絵葉書)

それから約40年後、西尾吉太郎さんを義祖父とする岡山金属の佐藤恒太さんが遺志をついで造像の再建に乗り出し、高梁市出身で岡山大学の助教授に着任していた彫刻家・宮本 隆さん(1917〜2014)が再制作した30分の一の原型(顔上部にある像)を手本に、玉野で石材業を営んでいた松下与一さんに彫像を依頼。松下は、これを一つ返事で快諾する。

左:僕の父と松下与一さん(1966) 右:友人を案内(2012)

1957年、佐藤恒太は木造の仮礼拝堂を建立。併せて、コンプレッサー付きの作業小屋を設置。松下は、最初の3年間を荒削りに費やし、最初に仕上がったのが眉毛で長さ1.5m。続いて1年半がかりで1.5mの口、そして、鼻、耳が形を現し、約10年間で顔部分の約80%が完成する。しかし、松下も寄る年波に勝てなかったのか、顔の輪郭を作る爆破作業中に苦労して彫り上げた眉毛を吹っ飛ばし、火災を発生させ礼拝堂も全焼。その後、腰を痛めて10ヶ月間入院し、遂に1977年に佐藤から作業中止命令を下されてしまいました。

牛ヶ首島から玉野市の田井港を臨む(2013)

牛ヶ首島は、宇野港からモーターボートなら5分ほどの距離ですが、島の船着き場に至る海には、水深0mの浅瀬が広がっていて、先達なしでの接近は危険です。また、牛ヶ首という島名は、直島諸島を根城にしていた海賊が、牛頭大王の幟旗を舳先に立てて戦っていたのが由来と伝わっています。

牛ヶ首島湾内(出典:西尾氏発行の絵葉書)

後年、直島の三菱合資会社・中央製錬所(現・三菱マテリアル直島精錬所)で製造された大阪造幣局向けの銅製品を、牛ヶ首島に住み着いた海賊の末裔たちが輸送の任にあたる事になるのですが、それはまた別の話 🤣

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