倉敷建築工房・楢村徹設計室が江戸後期の民家をギャラリーとして再生したサロン・ド・ヴァンホーの主宰者で造形作家の内山貞和さんと木工作家・勝水喜一さんの机を囲み、「刹那的な横糸だけが氾濫している今、時間軸という縦糸が無ければ文化は生まれない」などの言霊を2時間ほど拝受したのは、2010年の事。
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企画展:昨日・今日・明日 展(終了)
会 期:2023年4月1日(土)〜4月9日(日)
11:00〜日没まで
会 場:サロン・ド・ヴァンホー
倉敷市西坂 1088
086-462-5133
白井晟一 内山貞和 岡部 玄 要 樹平 武田 浪 他
内山貞和
今回のゲスト作家は岡部 玄さんです。1970年代に美術学生だった頃の気風を今でも濃厚に漂わせています。多才な表現域を持っていますが、流木による造形が広く認知されていると思います。最近の作品は、流木のピースが小さくなったのにスケールは変わらないので、一点当たりに掛けるエネルギー密度や集中力の高さが観る者を圧倒致します。私にはカオスを纏った曼荼羅のように観えます。混迷を極める現代の映し鏡とも思えるのは私だけでしょうか?
世界は問題が山積しているのに、どれも容易に解決しそうもありません。人類は癌細胞そのものに成り果てた様で、不謹慎にも人類さえ亡びてくれたら、多くの問題が解決するのにと思ってしまいます。それでも明日に希望を託すのであれば、パンデミックの後にルネッサンスが、産業革命の時にはアーツ&クラフト運動が起こったように、今回もアートの出番を信じます。昨日に学び、今日を生き、明日に希望を託したいです。

アイキャッチ画像は、サロン・ド・ヴァンホーから南へ約5キロにある江戸後期における倉敷村を率いた豪商・大橋家(大橋家住宅)。大原美術館を設立した大原家(語らい座 大原本邸)や井上家(井上家住宅)と共に「古禄十三家」と呼ばれました。街道に面して長屋を貫くように出入り口が作られている長屋門を構えた主屋が特色で、当時の倉敷代官所から通常の町家では許されない普請を承諾された事が窺われ、当家の格段の家柄が偲ばれます。
大橋家の主屋は、入母屋造で本瓦葺き、屋根裏には部屋と厨子(物置場)を設けた重層の建物が主体となり、東には平屋建ての座敷がある。用材の多くは、地方産の松を使い、化粧材は欅や杉などを用いて鉋仕上げにして、簡素ではあるが行き届いています。概ね1796年から1807年にかけて主要部分が建築され、その後は、1807年と1851年の2度、大改造が行われています。
1978年に主屋や長屋門、米蔵、内蔵の4棟が国の重要文化財に指定。1991年から1995年にかけて、保存修理工事が行われ、最も屋敷構えの整った1851年頃の姿に復元され、当時の格式の高さと繁栄ぶりを伺い知る輝きを取り戻しました(大橋家住宅のパンフレットから要約転載)。
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作品展:能勢聖紅 + 細川康秀
倉敷 花もよい
会 期:2023年11月18日(土)〜11月26日(日)
9:00〜17:00
入館料:550円(一般)
会 場:大橋家住宅
岡山県倉敷市阿知3-21-31
086-422-0007

大橋家の先祖は、豊臣氏に仕えた武士でした。1615年大坂落城の後、京都五条大橋辺りに隠れ住んだようで、幕府の追及を逃れるため大橋を名乗るようになったと伝わっています。この頃から数えると400年余りの歴史がある家柄となります。
「豪商大橋家と近世地域社会」から要約転載
江戸時代の初めに備中・中島村(現・倉敷市中島)に移り住み、その後の1704年頃に今の倉敷に住むようになって中島屋平右衛門と代々称し、水田・塩田を開発して大地主となり、かたわらで金融業を営み大きな財をなしていきます。1913年には、倉敷市と岡山市の一部に約168町(野球場168個分)の土地を所有していました。

江戸時代の四大飢饉の一つ・天保の飢饉(概ね1833〜1836)の際には、相生町、井上町、川西町、阿賀町などの167世帯・656人の困窮を貯蓄米で救済し、更に救済費として一千両(現在の貨幣価値で約1億3000万円)を幕府に献じた褒美として老中・水野越前守忠邦(1794〜1851)から永々に苗字を名乗るようにという指令が、勘定奉行・梶野土佐守を経て、代官・高山又蔵から中島屋平右衛門に伝えられた。加えて代官・高山又蔵の命で讃岐国・直島に五千五百両を投じて塩田十二町七反(126,000㎡)余りを開いて、その功で帯刀をも許され、江戸時代の末期の文久元年(1861)には倉敷村の庄屋を務めました。ところが、1866年に長州藩第二奇兵隊の幹部で、大橋家の養子・大橋敬之助(後の立石孫一郎)が倉敷代官所を襲撃した「倉敷浅尾騒動」以後に家運が傾いていきました。敬之助は、正義感の強い反骨精神の持主であったため、他の奸商が代官と通じて利を貪るのには耐えられず、不正を暴くなどをしたため憎まれ、ついに身を立て難くなって事件の2年前に倉敷を出奔し、第二奇兵隊に身を投ずるに至ったそうです。
喜・桐・里のパンフレットを要約転載
敬之助は、1848年に作州・立石家より大橋家へ養子に入り1860年には、村役人として年寄役を務めている。この西大橋家の住宅解体の時に「万延元年申九年」と年紀のある瓦が見つかっているので、恐らく養父・平右衛門が敬之助の年寄役就任を機に新居を建ててやったのではあるまいか。しかし、1864年には妻と二男一女を残して長州へ向かったとされるので、圭之介が西大橋に住んだのは、僅か3年余りということになる。ともあれ、倉敷浅尾騒動は幕末における尊王攘夷の騒然とした時、地方に燃え上がった狼煙にも似たものであった。結末は、哀れにも無惨な事件であったが動乱期における一つの抵抗運動として意義深いものがあった。

こちらの家は、「元大橋」と言い表されていた大橋家の50メートルほど西方にあった建物で「西大橋」と呼ばれていた別邸。1966年に現在の地・早島町に移築され、一棟貸しの宿泊施設&レンタルスペース・「喜・桐・里」として活用されています。