ここに錨を下して遊ばんせ!

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「人生は、遊戯するように過ごすべきである」とギリシャの哲学者・プラトンが語ったそうですが、それには生計を賄う算段と心穏やかに過ごせる生活環境は必須だと思います・・・恒産なくして恒心なし(孟子)。

1934年に日本初の国立公園に指定された瀬戸内海を懐に抱き、海を挟んで現代アートの島と注視されている直島豊島への海の玄関口・宇野港を有する玉野市は、国内外から訪れる観光客の笑顔が溢れる街として国際的にも認知されています。ここに錨を下して遊ばんせ!

東洋経済新聞社の「都市データパック」(2024)によると、岡山県内の財政健全度ランキングの総合評価で倉敷市、岡山市に次ぐ3位(全国350位)。住み良さランキングは、1位に返り咲き(全国166位)・・・玉野市への移住相談は、たまのの IJU コンシェルジュうのずくり(うのに住んで + つくる)にお問い合わせ下さい。

愛艇@宇野港の県営第7桟橋(2006)

こちらは、「瀬戸内海は、俺の庭だ!」と海の男を気取っていた頃に所有していたセイリングボートのノラ21(ガフリグ、設計:横山 晃)とプレジャーボートのサルパ30。単独で外洋経験のない軟弱者ですが、この頃の経験で得た感覚が、仕事のプロセス自体を楽しむ今のスタイルに帰結したように思います 😅

島のおじいさんおばあさんの笑顔を見たい。そのためには、人が訪れる “観光” が島の人々の “感幸” でなければならず、この芸術祭が島の将来の展望につながって欲しい。このことが、当初から掲げてきた目的=『海の復権』です。

有史以来、日本列島のコブクロであった瀬戸内海。この海を舞台に灘波津からの近畿中央文化ができたこと、源平、室町、戦国時代へとつながる資源の争奪の場であったこと、北前船の母港として列島全体を活性化したこと、朝鮮通信使による大切な大陸文化の継続した蓄積の通路であったことは、その豊かさを物語るものでした。しかしこの静かで豊かな交流の海は近代以降、政治的には隔離され、分断され、工業開発や海砂利採取等による海のやせ細りなど地球環境上の衰退をも余儀なくされました。そして世界のグローバル化・効率化・均質化の流れが島の固有性を少しずつなくしていく中で、島々の人口は減少し、高齢化が進み、地域の活力を低下させてきたのです。

私たちは、美しい自然と人間が交錯し交響してきた瀬戸内の島々に活力を取り戻し、瀬戸内海が地球上のすべての地域の『希望の海』となることを目指し、瀬戸内国際芸術祭を開催しています。5回目の芸術祭となる瀬戸内国際芸術祭 2022 においても、これまで同様、海に囲まれどこからでもアプローチでき、農・工・商が混在した原初の人びとの存在を教えてくれる瀬戸内の島巡りを通し、この先地球上に人が生きること、展望を持つことを考えながら作品を展開していきます。

瀬戸内国際芸術祭 2022 の概要
宇野地区と田井地区を臨む@宇野港(2019)
王子が岳から宇野港方面を臨む@瀬戸内海(2011)

振り返って見れば、その都度訪れた岐路を賢く選択出来たかどうか疑問の残るところですが、終活の時期を迎えて改めて振り返えれば、毎日16時間を会社に捧げた30代は、自分の置かれている状況を確認する余地もなく邁進した時代。40代前半は、その反省もあり毎朝リゾートホテルのジャグジー付き温水プールで心身を解放してからの出社を心掛け、休日には国内のギャラリーや美術館、ライブハウスなどを巡礼しました。

左上から時計廻りにエルーセラ島グッゲンハイム美術館エプコットケネディ宇宙センター(1985〜1990)

40代後半は、毎年5週間ほどの長期休暇を取り、アメリカの主要都市やカリブ海のリゾート地で休暇を過ごしました。そして、50代になって宇野港周辺に老後の暮らしに必要不可なアイテムが全て揃っている事に改めて気づき、この地で理想的な生きがいを求めようと思い、大病を患って迎えた60代からは、暮らしの拠点となっている宇野港の魅力を国内外に発信する事が生きがいになりました。

サイズ30cm超のシロギスを釣り上げる@直島沖(2011)

良き感情とは、無益に考えられてこそ得られると教えられました。日々の心地良い豊かな安息には、今も昔もロマンティックな物語(このブログのように過去を思いっ切り美化して自己肯定感を高める・笑)も必要だと思います 🤣

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