ここに錨を下して遊ばんせ!

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アイキャッチ画像は、海の男を気取っていた2010年頃の愛艇@宇野港第七桟橋。セイリング・クルーザーは、小さなガフリグ仕様のノラ21(設計:横山 晃)。プレジャーボートは、自由な取り回しが魅力だったヤンマー・サルパ30。ギリシャの哲学者・プラトンは、「人生は遊戯するように過ごすべきである」と語ったそうです。それを実践するには、日々を心身ともに健やかで、生計を賄う算段をし、心穏やかに過ごせる生活環境を整え、時々判断を求められる岐路を賢く選択しなければならないと考えました。

岡山県の南端に位置する玉野市は、1934年に日本初の国立公園に指定された瀬戸内海を懐に抱き、1930年に岡山県最初の開港場になった宇野港を有し、医療施設や文化施設が充実している岡山市や倉敷市という中核都市が後背地にある地域です。幸いな事に温暖な気候に恵まれ、海を挟んで現代アートの島・直島もあり、近年、国内外から訪れる人々の笑顔が溢れる街として認知されています。自分の暮らしの拠点・・・ここに錨を下して遊ばんせ! 🤣

NEWS! ご案内をいただきました 🤣

企画展:第5回 瀬戸内国際芸術祭 2022
会 期:春会期(終了)
    夏会期(終了)
    2022年9月29日(木)〜11月6日(日)
会 場:直島、豊島、女木島、男木島、小豆島
    大島、犬島、沙弥島(春会期)
    本島(秋会期)、高⾒島(秋会期)
    粟島(秋会期)、伊吹島(秋会期)
    高松港周辺、宇野港周辺
主 催:瀬⼾内国際芸術祭実⾏委員会
    香川県高松市サンポート 1-1
    087-813-0853

「島のおじいさんおばあさんの笑顔を見たい」。そのためには、人が訪れる “観光” が島の人々の “感幸” でなければならず、この芸術祭が島の将来の展望につながって欲しい。このことが、当初から掲げてきた目的=『海の復権』です。

有史以来、日本列島のコブクロであった瀬戸内海。この海を舞台に灘波津からの近畿中央文化ができたこと、源平、室町、戦国時代へとつながる資源の争奪の場であったこと、北前船の母港として列島全体を活性化したこと、朝鮮通信使による大切な大陸文化の継続した蓄積の通路であったことは、その豊かさを物語るものでした。しかしこの静かで豊かな交流の海は近代以降、政治的には隔離され、分断され、工業開発や海砂利採取等による海のやせ細りなど地球環境上の衰退をも余儀なくされました。そして世界のグローバル化・効率化・均質化の流れが島の固有性を少しずつなくしていく中で、島々の人口は減少し、高齢化が進み、地域の活力を低下させてきたのです。

私たちは、美しい自然と人間が交錯し交響してきた瀬戸内の島々に活力を取り戻し、瀬戸内海が地球上のすべての地域の『希望の海』となることを目指し、瀬戸内国際芸術祭を開催しています。5回目の芸術祭となる瀬戸内国際芸術祭2022 においても、これまで同様、海に囲まれどこからでもアプローチでき、農・工・商が混在した原初の人びとの存在を教えてくれる瀬戸内の島巡りを通し、この先地球上に人が生きること、展望を持つことを考えながら作品を展開していきます。

宇野港の宇野地区と田井地区を臨む(2019)
王子が岳から宇野港方面を臨む@瀬戸内海

終活の時期を迎えて改めて己の過去を振り返えれば、毎日16時間を会社に捧げた30代は、自分の置かれている状況さえ確認する余地もなかった。その傷の回復を図るため(笑)40代前半は、毎朝リゾートホテルのジャグジー付き温水プールで心身を解放してからの出社を心掛け、国内のギャラリーや美術館、ライブハウスなどを巡礼。40代後半は、毎年5〜6週間の長期休暇を取り、アメリカ合衆国の主要都市やカリブ海のリゾート地で休暇を過ごしました。

右上から時計廻りにニューヨーク(グッゲンハイム美術館)、オーランド(エプコットケネディ宇宙センター)、バハマ(エルーセラ島
サイズ30cm超のシロギスを釣り上げる@直島沖(2011)

そして、50代になり生まれ育った宇野港周辺に老後の暮らしに必要不可な理想的なアイテムが全て揃っている事に気づき、この地に生きがいを求めようと確信。そして、大病を患って迎えた60代は宇野港の魅力を国内外に喧伝する事が使命と思い注力しています。

この頃の瀬戸内海を自分の庭として楽しんだ感覚が、今の仕事のプロセス自体を楽しむスタイルに帰結したように思います。良き感情とは、無益に考えられてこそ得られると教えられました。心地良い安息には、今も昔もロマンティックな物語(思い出を美化して自己肯定感を得るのも有効・笑)が必要だと思います。

玉野市への移住相談は、たまのの IJU コンシェルジュうのずくり(うのに住んで + つくる)にお問い合わせ下さい。

閑話休題

瀬戸内海を快適に航行するには、潮流の向きと速さを表す潮流推算が欠かせません。こうした海の知識を当時の備前藩が入手して、備讃瀬戸の漁場を巡る高松藩との漁場争い(樽流し)に活かしてくれていたらなぁ 🤣

■樽流し伝説(河井康夫 著・玉野の伝説を要約転載)

1731年頃、高松藩の漁師が備前藩の所属と考えていた大槌島周辺に入り込んで漁をしたことが発端で、両藩の間で漁場を巡る境界争いをするのですが、両藩では紛争が解決できず、とうとう幕府に裁きを求めることになった。

備前藩は、小川村(児島)の名主だった菅野彦九郎を担ぎ出し、「大槌島は讃岐に近いが、島の北側は日比村のものが開いた畑があり(実は、彦九郎がこっそりと上陸して画策したらしい)、幕府の絵図にも讃岐と備前の両方に大槌島が記されている。だから島の中央を両国の境界とし、漁場も北側を備前、南側を讃岐とすべきだ」と主張。大曾瀬(おおそのせ)から南側を讃岐の漁場、北側を備前の漁場とするという有利な裁きを勝ち取った。

しかし、その後も好漁場を巡る争いは絶えなかったため、またもや彦九郎が一計を案じる。ある日こっそりと大槌島から樽をながしたところ、樽は塩飽諸島のほとんどを含んで流れた。この結果にすっかり自信をつけた彦九郎は、「それでは、国境は樽流しで決めようではないか」と讃岐側に申し入れたのだ。この案では、またしても備前藩にとっては有利に働くはずだった。

そして翌1732年、両藩立会いのもとで大槌島から樽は投げこまれます。彦九郎は心の中でほくそ笑んでいたが、なぜか予想に反して樽はどんどんと備前側(北)に近寄っていく。彦九郎は青くなったが、もうどうしようもない。こうして櫃石島を含む広大な備讃瀬戸の海が讃岐領になってしまった。

「あなたのご期待通りにゆかなくて申しわけないが,ご異存あるまいな。念のため申し上げるが,潮の流れというものは時刻によって方向が変わるものじゃ。樽を流す時刻がもう半刻も遅れていれば、これらの島々はみな備前のものになっていたであろう」と讃岐藩の立会人・・・こうして、岡山は海では香川に敵わないというトラウマに今日も悩まされることになった。知らんけど 😅

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