既に手放していますが、嘗ての愛艇をご紹介(笑)・・・アイキャッチ画像は、ガフリグのセイリングボート・ノラ21(設計:横山 晃)@直島・宮浦港と、自由な取り回しが魅力だったプレジャーボート・サルパ30@石島。ギリシャの哲学者・プラトンは、「人生は遊戯するように過ごすべきである」と語ったそうですが、まず生計を賄う算段をし、日々を心身ともに健やかで、心穏やかに過ごせる生活環境を整えたい。
岡山県の南端に位置する玉野市は、1934年に日本初の国立公園に指定された瀬戸内海を懐に抱き、1930年に岡山県最初の開港場になった宇野港を有し、海を挟んで現代アートの島・直島もあり、国内外から訪れる人々の笑顔が溢れる街として認知されています。東洋経済新聞社の「都市データパック」(2023年)によると岡山県内の財政健全度ランキングの総合評価では、倉敷市、岡山市、瀬戸内市に次ぐ4位(全国334位)。更に、住み良さランキングでも瀬戸内市に次ぐ2位(全国167位)。ここに錨を下して遊ばんせ! 🤣

「目の前に広がる瀬戸内海は、俺の庭だ!」と海の男を気取っていた自分ですが、実は一人で外洋に出たことのない軟弱者です。ただ、瀬戸内海を楽しんだこの頃の感覚が、仕事のプロセス自体を楽しむ今のスタイルに帰結したように思います 😅
「島のおじいさんおばあさんの笑顔を見たい」。そのためには、人が訪れる “観光” が島の人々の “感幸” でなければならず、この芸術祭が島の将来の展望につながって欲しい。このことが、当初から掲げてきた目的=『海の復権』です。
瀬戸内国際芸術祭2022 の概要
有史以来、日本列島のコブクロであった瀬戸内海。この海を舞台に灘波津からの近畿中央文化ができたこと、源平、室町、戦国時代へとつながる資源の争奪の場であったこと、北前船の母港として列島全体を活性化したこと、朝鮮通信使による大切な大陸文化の継続した蓄積の通路であったことは、その豊かさを物語るものでした。しかしこの静かで豊かな交流の海は近代以降、政治的には隔離され、分断され、工業開発や海砂利採取等による海のやせ細りなど地球環境上の衰退をも余儀なくされました。そして世界のグローバル化・効率化・均質化の流れが島の固有性を少しずつなくしていく中で、島々の人口は減少し、高齢化が進み、地域の活力を低下させてきたのです。
私たちは、美しい自然と人間が交錯し交響してきた瀬戸内の島々に活力を取り戻し、瀬戸内海が地球上のすべての地域の『希望の海』となることを目指し、瀬戸内国際芸術祭を開催しています。5回目の芸術祭となる瀬戸内国際芸術祭2022 においても、これまで同様、海に囲まれどこからでもアプローチでき、農・工・商が混在した原初の人びとの存在を教えてくれる瀬戸内の島巡りを通し、この先地球上に人が生きること、展望を持つことを考えながら作品を展開していきます。


その都度訪れた岐路を賢く選択出来たかどうかは疑問の残るところですが、終活の時期を迎えて改めて己の過去を振り返えれば、毎日16時間を会社に捧げた30代は、自分の置かれている状況を確認する余地もなく離婚も経験しました。その傷を癒すため、40代前半は毎朝リゾートホテルのジャグジー付き温水プールで心身を解放してからの出社を心掛け、休日には国内のギャラリーや美術館、ライブハウスなどを巡礼。

40代後半は、毎年5〜6週間の長期休暇を取り、アメリカの主要都市やカリブ海のリゾート地で休暇を過ごしました。そして、50代になって初めて宇野港周辺に老後の暮らしに必要不可な理想的なアイテムが全て揃っている事に気づき、この地に生きがいを求めようと確信。そして、大病を患って迎えた60代からは、暮らしの拠点となっている宇野港の魅力を国内外に喧伝する事が使命と思い注力しています。

良き感情とは、無益に考えられてこそ得られると教えられました。心地良い安息には、今も昔もロマンティックな物語(思い出を思いっ切り美化して自己肯定感を得るのもあり・笑)が必要だと思います。玉野市への移住相談は、たまのの IJU コンシェルジュ・うのずくり(うのに住んで + つくる)にお問い合わせ下さい。
閑話休題
潮流の向きと速さを表す「潮流推算」を当時の備前藩が理解し、備讃瀬戸の漁場を巡る高松藩との漁場争いに活かしてくれていたら、樽流し後のトラウマに悩まさなかったのになぁ・・・知らんけど 😅
1731年頃、高松藩の漁師が備前藩の所属と考えていた大槌島周辺に入り込んで漁をしたことが発端で、両藩の間で漁場を巡る境界争いをするのですが、両藩では紛争が解決できず、とうとう幕府に裁きを求めることになった。
樽流し伝説(河井康夫 著・玉野の伝説を要約)
備前藩は、小川村(児島)の名主だった菅野彦九郎を担ぎ出し、「大槌島は讃岐に近いが、島の北側は日比村のものが開いた畑があり(実は、彦九郎がこっそりと上陸して画策したらしい)、幕府の絵図にも讃岐と備前の両方に大槌島が記されている。だから島の中央を両国の境界とし、漁場も北側を備前、南側を讃岐とすべきだ」と主張。大曾瀬(おおそのせ)から南側を讃岐の漁場、北側を備前の漁場とするという有利な裁きを勝ち取った。
しかし、その後も好漁場を巡る争いは絶えなかったため、またもや彦九郎が一計を案じる。ある日こっそりと大槌島から樽をながしたところ、樽は塩飽諸島のほとんどを含んで流れた。この結果にすっかり自信をつけた彦九郎は、「それでは、国境は樽流しで決めようではないか」と讃岐側に申し入れたのだ。この案では、またしても備前藩にとっては有利に働くはずだった。
そして翌1732年、両藩立会いのもとで大槌島から樽は投げこまれます。彦九郎は心の中でほくそ笑んでいたが、なぜか予想に反して樽はどんどんと備前側(北)に近寄っていく。彦九郎は青くなったが、もうどうしようもない。こうして櫃石島を含む広大な備讃瀬戸の海が讃岐領になってしまった。
「あなたのご期待通りにゆかなくて申しわけないが、ご異存あるまいな。念のため申し上げるが、潮の流れというものは時刻によって方向が変わるものじゃ。樽を流す時刻がもう半刻も遅れていれば、これらの島々はみな備前のものになっていたであろう」と讃岐藩の立会人。