ここに錨を下して遊ばんせ!

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人生は遊戯するように過ごすべきである(プラトン)・・・心身ともに健やかに暮らすには、生計を賄う算段をし、良い生活環境を得て、時々の岐路を賢く選択しなければならない。

幸いな事に、自分が暮らしている玉野市は、1930年に岡山県最初の開港場(外国との貿易のための港)に指定された宇野港を懐に抱き、医療施設や文化施設が充実している岡山市や倉敷市などの中核都市が後背地にあり、フェリーや旅客船で20分の距離に現代アートの島・直島もある。更に、温暖な気候にも恵まれ、国内外から訪れる人々の笑顔が溢れる素敵な舞台。

ここに錨を下して遊ばんせ! 移住の相談は、たまのの IJU コンシェルジュうのずくり(うのに住んで + つくる)にお問い合わせ下さい 🤣

宇野港の宇野地区と田井地区を臨む(2019)
王子が岳から宇野港方面を臨む@瀬戸内海

終活の時期を迎えて改めて己の過去を振り返えれば、30代は毎日16時間を会社に捧げ、自分の置かれている状況を確認する余地もなかった。40代はその傷の回復を図るために各国の美術館やライブハウスを巡礼。その合間にカリブ海などのリゾート地で毎年5週間ほどの休暇を過ごしていました。そして50代に生まれ育った宇野港周辺に老後の暮らしに必要不可な理想的なアイテムが全て揃っている事に気づき、この地に生きがいを求めようと確信。そして、大病を患って迎えた60代は宇野港の魅力を国内外に喧伝する事が使命と思い注力しています。

右上から時計廻りにバハマ、シカゴ、エルーセラ島、ニューヨーク(1985〜2005)

アイキャッチ画像は、海の男を気取っていた2010年頃の愛艇@宇野港第七桟橋。セイリング・クルーザーは、小さなガフリグ仕様のノラ21(設計:横山 晃)。プレジャーボートは、自由な取り回しが魅力だったヤンマー・サルパ30。

この頃の瀬戸内海を自分の庭として楽しんだ感覚が、今の仕事のプロセス自体を楽しむスタイルに帰結したように思います。良き感情とは、無益に考えられてこそ得られると教えられました。心地良い安息には、今も昔もロマンティックな物語(思い出を美化して自己肯定感を得るのも有効・笑)が必要だと思います。

サイズ30cm超のシロギスを釣り上げる@直島沖(2011)

閑話休題

瀬戸内海を快適に航行するには、潮流の向きと速さを表す潮流推算が欠かせません。こうした海の知識を当時の備前藩が入手して、備讃瀬戸の漁場を巡る高松藩との漁場争い(樽流し)に活かしてくれていたらなぁ 🤣

■樽流し伝説(河井康夫著・玉野の伝説を要約転載)

1731年頃、高松藩の漁師が備前藩の所属と考えていた大槌島周辺に入り込んで漁をしたことが発端で、両藩の間で漁場を巡る境界争いをするのですが、両藩では紛争が解決できず、とうとう幕府に裁きを求めることになった。

備前藩は、小川村(児島)の名主だった菅野彦九郎を担ぎ出し、「大槌島は讃岐に近いが、島の北側は日比村のものが開いた畑があり(実は、彦九郎がこっそりと上陸して画策したらしい)、幕府の絵図にも讃岐と備前の両方に大槌島が記されている。だから島の中央を両国の境界とし、漁場も北側を備前、南側を讃岐とすべきだ」と主張。大曾瀬(おおそのせ)から南側を讃岐の漁場、北側を備前の漁場とするという有利な裁きを勝ち取った。

しかし、その後も好漁場を巡る争いは絶えなかったため、またもや彦九郎が一計を案じる。ある日こっそりと大槌島から樽をながしたところ、樽は塩飽諸島のほとんどを含んで流れた。この結果にすっかり自信をつけた彦九郎は、「それでは、国境は樽流しで決めようではないか」と讃岐側に申し入れたのだ。この案では、またしても備前藩にとっては有利に働くはずだった。

そして翌1732年、両藩立会いのもとで大槌島から樽は投げこまれます。彦九郎は心の中でほくそ笑んでいたが、なぜか予想に反して樽はどんどんと備前側(北)に近寄っていく。彦九郎は青くなったが、もうどうしようもない。こうして櫃石島を含む広大な備讃瀬戸の海が讃岐領になってしまった。

「あなたのご期待通りにゆかなくて申しわけないが,ご異存あるまいな。念のため申し上げるが,潮の流れというものは時刻によって方向が変わるものじゃ。樽を流す時刻がもう半刻も遅れていれば、これらの島々はみな備前のものになっていたであろう」と讃岐藩の立会人・・・こうして、岡山は海では香川に敵わないというトラウマに今日も悩まされることになった。知らんけど 😅

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