石造りの回廊、重厚な木建具の間を回遊していると濱田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチらの作品がニコニコしながら迎えに来てくれる。大切に使い込まれた建築のみが醸し出すことができる空間がアサヒグループ大山崎山荘美術館にはある。ニッカウヰスキーの創始者の1人・加賀正太郎が大正時代に完成させたこの豪壮な山荘が、マンション建設のために取り壊し寸前だったとはにわかに信じがたい。
何かユニークな方法で、この山荘を後世に残しておきたい、それもできるだけ多くの人たちに喜んでもらえるようなかたちで・・・。(中略)展示されている美術品には、アサヒビールの初代社長である山本為三郎氏の陶磁器コレクションやアサヒビール所有のモネの絵画も含まれているが、その後もたくさんの方々から寄贈をいただいている。企業として、社会にいかなる還元ができるかを常に念頭に置かなければならないというのが、私の持論である。ささやかではあるが、お役に立てたと思っている。
樋口廣太郎
そう、大人がしっかり見守らなければ、「子供」は大切なものを簡単に捨ててしまう。

NEWS! ご案内をいただきました 🤣
企画展:くらしに花咲くデザイン
大正イマジュリィの世界
会 期:2025年12月20日(土)~2026年3月8日(日)
10:00〜17:00(最終入館は16:30まで)
入館料:1,500円(一般)
会 場:アサヒグループ大山崎山荘美術館
京都府乙訓郡大山崎町字大山崎小字銭原5-3
075-957-3123
イマジュリィ(imagerie)は、イメージ図像を意味するフランス語です。本展では、本や雑誌の挿画、装幀、絵はがき、ポスターなど大衆的な印刷物や版画の総称としてこの言葉を用いています。
大衆文化が隆盛した大正時代には、印刷技術の革新を背景に出版文化が発展しました。藤島武二(1867〜1943)、橋口五葉(1881〜1921)、竹久夢二(1884〜1934)ら当時新しい表現方法を模索していた画家たちも、同時代の美術界の動向と並走しながら、独自の表現を次々に生みだします。こうした動きのなかで、やがて杉浦非水(1876〜1965)をはじめとする多くのグラフィックデザイナーが誕生し、モダンデザインに大きな影響を及ぼしました。
本展では、監修者である山田俊幸(1947〜2024)の貴重なコレクション約320点を展覧し、多彩なデザインやイラストレーションをご紹介いたします。大正時代を中心に日本のくらしに花咲いた魅力あふれるイマジュリィの世界を、大正から昭和にかけての建築「大山崎山荘」をもつ当館でぜひご堪能ください。

こちらは、染色家・柚木沙弥郎(1922〜2024)の展覧会:染の仕事@アサヒグループ大山崎山荘美術館を記念して開催された講演会。たまたま手にした雑誌「民藝」で染色家・芹沢けい介(1895〜1984)の仕事に衝撃を受け型染めの世界に飛び込む事になった経緯や、思想家・柳宗悦(1889〜1961)、陶芸家・バーナードリーチ(1887〜1979)、濱田庄司(1894〜1978)ら民芸運動の先達から学んだ創作における姿勢などを、言葉を慎重に選びながら語って下さった。
柚木さんの作品も、伝統的な英国建築の意匠に見事にマッチングさせた展示構成で、正に民藝の「用の美」を具現化したものでした。1年半ぶりに訪れた美術館も庭園修復がほぼ完了していてアプローチの庭木が一段と清々しく誇らしげだった。

こちらは、講演後に訪ねたサントリー山﨑蒸溜所。ここに国産ウイスキーをつくるため1923年に日本で初めて作ったのは、寿屋(現・サントリー)の創業者・鳥井信治郎(1879〜1962)。初代工場長には、後にニッカウヰスキーの創業者となる竹鶴政孝(1894〜1979)が迎えられました。京都・JR山崎駅から徒歩10分。

こちらは、横浜トリエンナーレ 2008 で会場の一つとなった三渓園の旧矢箆原家住宅。座敷にゴロリと寝っ転がり、ティノ・セーガル振り付けのペフォーマンスに自分の心を心地よく開放させたものの、目の前の海への眺望は、今や高架道路や工場などで遮られている。
そうした視点から直島、豊島、犬島などの離島で開発している福武財団の「庭園作り」は、周囲を海に囲まれている離島という性格上、大きなアドバンテージがあるとの考えに及び、改めて福武總一郎さんと建築家・安藤忠雄さんの慧眼に敬服した次第。また、訪問客として感謝の念に堪えないのであります。
明治という近代の新しい夜明けを迎え、近代化が進む一方で、戦争で不況が続いた1906年5月1日、重い空気を払うかのように原三渓(1868〜1939)は、私邸の門柱に “遊覧御随意” の看板を掲げました。「三渓の土地は勿論余の所有たるに相違なきも、其の明媚なる自然の風景は別に造物主の領域に属し、余の私有には非ざる也・・・」。私有することを良しとせず、公開するは寧ろ当然・・・とする考えが、この時既に三渓の中に芽生えていたのです。三渓園は、明治・大正の日本を最も力強く支えた生糸輸出業とその問屋・製糸業を営み、横浜の近代化の一翼を担った実業家・原善三郎が風光明媚な三之谷の土地に目を向け別荘を建てたのをはじまりとして、善三郎没後、富太郞(雅号・三渓)が庭園造成を進め、邸宅の庭を三渓園として一般に公開しました。
三渓園開園100周年の冊子・「原三渓の描いた風景」より
富太郞は、漢詩や書画、茶を嗜み、その豊かな教養と歴史・芸術への深い理解は、三渓園の造成として昇華されています。また、富太郞は、美術品の収集、若い芸術家への支援・育成を行ったことでも知られていますが、三渓園は多くの芸術家・文化人・研究者らが集い自己研鑽の場とした、いわば文化創造・発展の地としても大きな役割を果たしてきました。いまでは、” 日本庭園 “という枠に捉えられがちですが、かつては昼夜を問わず誰もが訪れることができ、東京湾の海岸に面して潮干狩りや海水浴にも親しまれ、人々ののどかな日常生活もありました。三渓園は、新天地・横浜における土地開発事業や実業家の社会貢献としての意識など、成立背景には様々な面があったと思われます。
