離島生活支援船

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海上タクシーとして活用しつつ、弊社事務所に届く宅配便や小荷物、買い物を代行した食料品などを積み込み、宇野港から定期船の通わない離島・石島屏風島に週2回の運航をしていた離島生活支援船。1998年9月29日の事業開始から2012年5月12日まで、約1,500回の航海で約18,000キロを走破。丁度、瀬戸内海からアメリカ西海岸までの距離になります。

初代の離島生活支援船・飄(2005)@石島

採算的には、トントンだったけれど、島民とのつかず離れずの距離感がとても心地良かった。街では、「おっさん」の僕も、島では、「おにいさん」ですし、ワタリガニやゲタ(舌平目)、モエビ、ニシ貝、サザエ、イカ、大ダコ、フグ、海苔など、自宅の食卓に上る魚介類は、ほとんど漁師からの「いただきもの」で間に合ったのは嬉しい誤算でした(笑)。また、県営の浮桟橋を格安で専用させて貰った事、船で海に出ることで適度な緊張感が得られ、船からの乗り降り、島中を荷物車を押しながら歩き回ることで足腰も鍛えられ、休日の釣りなどに活用出来たのも収穫でした。

石島にて

カンボジアのジェムリアップを旅して目が届かなかった2005年9月、台風14号の強烈な南風を受けた初代・離島生活支援船(ヤンマー・はやぶさ28)が岸壁と接触。ブリッジと船尾の修理に3ヶ月、費用も300万円ほどかかるというので、バウローラーや GPS 付き魚探などのオプションを加えてヤンマー・サルパ30の新艇を購入。900万円超の出費でしたが、狭い漁港内での取り回しが楽なドライブ仕様で、最高速度30ノット(約55キロ)、波高1.5m 程度の波浪でも安定した走りでした。

シロギス釣り@直島沖 🤣
左:揮毫・渾 彩秀、右:宇野港フェリーターミナル・離島航路棟

最近、つくづく思うのですが、良いデザインとは、良い「骨格」を作ること。造形には、好み、流行、廃りがある。家も街も都市も同じで、大切なのは、未来へのギフト・健康的な「骨格」を作る事なのではないか? 1997年、宇野港再開発計画が行政主導で推し進められていることに危機感を感じ、その真ん中に楔を打ち込むプロジェクトなどを経験して、そのように思うようになりました。

その頃、書家の渾 彩秀さんにプロジェクトのシンボルに掲げた「飄」という文字(離島生活支援船やヨットの船名にも用いました)を揮毫していただきました。その時、「この文字にどのようなイメージを込めたいのですか?」と問われ、答えに窮してた時に教えていただいたのが 、「たゆたえども沈まず(Fluctuat nec mergitur)」という標語でした。19世紀半ばまで、パリは動乱に満ちていたそうです。「荒天に見舞われ、帆布も舵も失い、波風に翻弄されても、決して船は沈ませないぞ」というメッセージでしょうか? 花の都・パリ市の紋章・帆船に添えられているこの標語には、そうした逆境を乗り越えたパリ市民の心意気なのでしょう。

2代目・離島生活支援船@宇野港の第7桟橋(2006)

昔々、パートナーから、「貴方を漢字一文字で表すなら飄かしら」と告げられた事がありました。飄(ひょう)とは、旋風(つむじかぜ)の意ですが、飄々とか飄逸と綴れば、世間離れしていて、呑気でとらえどころがないとなる。一瞬、からかわれたと思ったけれど、よくよく考えるとなかなか味わいがある(笑)。

ヨット・飄@宇野港の第7桟橋(2006)
宇野港の第7桟橋にて(2006)

当時、海にはヨットやモーターボートで年間100日ほど出ていましたが、そこは、嘘やハッタリが一切通用しない世界です。ヨット・ビルダーで友人でもある外洋航海者の池川富雄さんからも、「海上の変化は、時々刻々、アマチュアだから海も少しは手加減してくれるかというとそんなものではありません。海は、アマチュアにもプロにも、金持ちにも貧乏人にも、良い船にも悪い船にも、年寄りにも若者にも、地位や名声がある人にも無名の人にも、全く公平にその荒々しさや優しさを見せてくれます。だから素晴らしい」と教わりました。自然に深い敬愛の念を抱いている人の眼差しは信頼するに値しますね。

ただ、穏やかで慣れた海ばかりをなぞって無事に港へ帰ってきても、それは航海と呼ぶには相応しくない。荒れた海に対する能力を磨かなければ、見えてこない世界があるように、日々の暮らしにも楽しさの充足を求めつつ、共に安全と利便、利潤を調和させることが出来たらと願っています。

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