自分が東京で建築&デザイン系の月刊誌・Japan Interior Design の編集部で使い走りをしていた1981年に結成されたデザイン集団・メンフィス(MEMPHIS)の活動を目の当たりにした時の驚きは衝撃的でした。その時、その後のデザイナーや建築家の多くは、彼らから開放的なインスピレーションを得て今を生き伸びていると言っても過言ではないと思いました。エットレ・ソットサスさん(1917~2007)は、今でも豊かな疑問です。気紛れで不確かな勝手気ままな意思には服従しないという自由人であり、学び、行い、教えるという営みを続けた真のアーティストだったと思います。
平和的な調和を希求するベクトルが強くなれば、表現の自己規制という罠に囚われてしまう。デザインは、そうした独裁力を秘めていることを忘れてはならない。デザインに対して唯一配慮されるべきことは、儀式の進行を促進できるオブジェを作ろうとすることです。すなわち、もろく、はかなく、不合理であやうい日々の状態のなかで、ふと凝縮できる瞬間をもたらすことができるような移行を起こすこと、それがデザインなのです。
エットレ・ソットサス
異種との平和的共存を探る旅。彼らの作品は、機能主義的束縛の中で炸裂した爆弾だった。大晦日にミラノの自宅で心不全のため死去との事。心より哀悼の意を献げます(2008年1月7日)。
目の混乱には、二通りある。即ち、明るい所から暗い所へ入ったために生ずるか、暗い所から明るい所へ入ったために生ずるかである。この事を思い浮かべられる人なら、混乱している人に出会った時に、その人が明るい生活から暗い生活へ入り込んだが故に、その暗さに慣れていないのか、暗闇から白日の下に戻ったために目が眩んでいるのかを、まずは問うであろう。
プラトン
穏やかな天気の日にヨットで海に出る。しかし、海上で面白気分を得られても、帰港時のヨットの着岸が下手だとシーマンとしての評価は低くなる。だからといって、「母港」から走り慣れた海をなぞって無事に帰ってきてもそれは航海と呼ぶには相応しくない。経験した事のない海に出向く時には気持ちも高揚するし、そこで天真爛漫に振る舞えるだけの技量を身に付けたい。そして今、この「出港」と「帰港」、「離岸」と「着岸」という行為に対して、チームのメンバーがそれぞれに無自覚で、その解釈がバラバラな故に、進路を巡って意見が揺れている。船長、失格!(苦笑)。

こちらは、六本木の防衛省の跡地に誕生したザ・リッツ・カールトン東京の見学を兼ねて立ち寄った倉俣史朗とエットレ・ソットサス展@21_21 DESIGN SIGHT。もしも展示作品から一つだけ所有を許されるなら「ビギン・ザ・ビギン」かなぁ、なんて見果てぬ夢を抱きながら会場を後にしました(笑)。
企画展:倉俣史朗とエットレ・ソットサス展(終了)
夢見る人が、夢見たデザイン
会 期:2011年2月2日(水)~7月18日(月)
入場料:1,000円(一般)
会 場:21_21 DESIGN SIGHT
東京都港区赤坂9-7-6 東京ミッドタウン・ガーデン内
03-3475-2121
僕らが活動を始めた1960年代の初頭は、日本も敗戦から立ち直り経済復興の真っ只中。優秀なデザイナーがたくさんいましたが、中でも倉俣さんはヒーロー的な存在でした。例えば、彼の素材の使い方。どんな素材も彼の手にかかると、見たこともない魅力的なデザインに生まれ変わっている。人間的にも、仕事の上でも僕たちは皆、倉俣さんを心から尊敬していたのです。日本のデザインはギュッと詰まって無駄がなく合理的ですが、倉俣作品には不思議な空気感が満ちていて、僕らには表現できない世界なのです。彼と出会わなければ、僕の仕事も違っていただろうと思います。
ソットサスさんに最初に会ったのは、1960年代後半、パリの装飾美術館で開催されていたオリベッティの展覧会だったと思います。彼は、建築家、デザイナー、詩人、写真家、まさに天賦の芸術家だった。同時に「メンフィス」のようなデザイン運動を仕掛け、雑誌『TERAZZO』を監修するような編集能力もあった。けれども、人は頭で行動するが、もっとも大切なのはフィーリング、タッチだと語ってくれました。
芳香を放ち続ける倉俣さんの作品と、彼が尊敬し影響を受けたソットサスのデザインを、次の時代をつくる人々にぜひ伝えたい。そんな思いで、「倉俣史朗とエットレ・ソットサス」展を企画しました(三宅一生)。